2009年1月10日土曜日

江角マキコ

きのう、職場の先輩からお借りした日本のテレビ番組のビデオで「スマスマ」をみてね。
江角マキコさんがゲストで出ててさ。
そういえば、桐島ローランドと結婚して、再婚して、あー、今はお子さんもいるのね、なんてなんとなく、インターネットで検索していたら、数年前に弟さんをガンで亡くしていて、朝日新聞に寄稿していたこんな手紙を見つけてさ。

今まで、江角マキコって、必要以上にガンっと強そう(強すぎそう)で、自分の思う道を思うままガンガン突き進んでいそうで、愛想もそんなによくなさそうだし、化粧してません、ノーメークです、自然ナチュラルが売りです、みたいなイメージがあって、素敵と思う反面、ちょっと怖そうだし近くにいたら敬遠しちゃうかも、って思ってたけど、これを読んで、ガラリとイメージがかわったよ。

こんな大変な経験してたんだな。
いろんな経験をして、ひとの辛さ、痛みがわかって、自分にとって何が大事かってのをよくわかってて、それであの「凛」とした雰囲気が出てるのかも。
その大事なものを壊そうとするものがあったら、ふざけんなよ、負けねーよ!みたいな、寄せ付けないオーラを出してるのかも。

年をとるにつれ、神様がいるならばどうぞよろしく、とココロのなかでお願いすることといえば、私自身も含めて、私のまわりのみんなも、誰もかれも、とにかく、健康第一で長生きで頼みます、ということ。
これを読んでますますその思いが強くなります。
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家族 ある女優からの手紙
「父の分も」弟と歩んで

日曜日の「家族」、いつも心を静かに拝読しています。
様々な生き様があるのですね。私はパソコンを持っていないので、ペンを取らせていただきました。
この手紙は、私が女優をしている事で、同じ境遇の方々と少しでも勇気を共有できたらという思いと、一人の人間として純粋に心の声を聞いて頂きたく、ペンをとった次第です。

 私は島根県の出雲市で生まれ育ちました。私が長女、下に3歳違いの弟、9歳違いの妹の3人兄弟です。
両親とも21歳の時、私が生まれました。
 父は農協に勤め、母はバスガイドを辞めて、地元で当時、活気のあったベニヤの合板工場で働いていました。
田んぼや畑を祖父がしていましたので、幼い時は、きょうだいで田植えや稲刈りを手伝ったり、畑のビニールハウスの骨組みで遊んだり、竹とんぼや竹馬、竹鉄砲など、おもちゃは、もっぱら父の手作りで、野山を走り回って遊びました。
ぜいたくは出来ませんでしたが、明るく、思い出いっぱいの子供時代でした。
 
 父は勉強に熱心で、私が小学校中学校の頃から「お父ちゃんテスト」をしてくれました。
新聞の漢字を書き出し、意味を辞書で調べる。
読んだ感想を作文に書く。
算数のテストを作り、赤丸をつけて採点してくれました。

 高1の1月、父は仕事上の試験のため、松江市で合宿をしていました。
金曜の夜に戻ってきて、土日を家で過ごし、また月曜からは松江に行く。
 2度目の金曜日です。
野菜がたくさんで肉が少しのすき焼きをみんなで食べ、その後、父はこたつで勉強していました。
「真紀」と私は呼ばれ、
「真紀は勉強して、大学へ行けよ」
「約束」
と言い、私の頭をなでてくれました。

 その次の金曜日。父は帰ってきませんでした。
夜になっても母もいません。
夜中の12時ごろ、電話が鳴りました。
病院からの危篤の電話でした。
きょうだい3人、おじさんの運転する車で松江に向かいました。

 廊下で、母と、父方のおばあちゃんが拝んでいます。
怖くなりました。
病室は面会謝絶の札がかかり、中に入ると、父は機械に囲まれて少しも動きませんでした。
 後で知ったことですが、父は合宿所で、金曜日の夕方、大量に吐血し、そのまま胃の手術をしたそうです。
術後、付き添った母と
「のどが渇いた」
「痛い」
「子供には言うなよ。すぐ良くなる」
など少し会話をしたらしいのですが、痛み止めの注射の後、ショック状態になり、意識を失ったようです。
 私たち子どもは土日は病院にいましたが、月曜日には家に戻り、学校に行きました。
 その月曜日、父は亡くなりました。
 37歳でした。

夕方、父が母と一緒に家に戻ってきました。
2年前に、畑をひとつやめて建てたばかりの家です。
母が泣きながら、でも強く
「お母ちゃん、これから頑張るけん」
と言い、私たちを抱きしめて泣きました。

 弟が一番大きな声で泣いていました。
中1でした。部屋に閉じこもり
「お父ちゃん、お父ちゃん」
と何度も叫んで、泣いていました。
妹は小1で、皆が泣いているのが悲しくて泣いていました。
 
 私は父と約束した進学をあきらめ、実業団のバレーボールを選びました。
島根になるべく近いチーム、お給料の安定しているチームを選び、当時、月10万円の手取りのうち、7万円を家族のために貯金しました。
 その後、弟と私は、同じ東京で暮らすことになり、よくお互いを励ましました。
弟は結婚し、女の子ばかり3人の子に恵まれました。一番下の子と、私の初めての子が同い年です。

 父が亡くなって20年以上たち、それぞれの人生を歩み、幸せでした。
父の分も・・・・と皆が生きてきました。
 
 おととし、その弟が、がんの告知を受けました。
  生まれ変わっても、きょうだい
 
弟は、会社の定期健診で胃潰瘍(かいよう)といわれ、05年6月に再検査を受けました。
「どうせたいしたことないよ」
弟も私もそう思っていましたが、胃がんだと診断され、7月下旬に全摘手術。
「良くなるから、田舎の母や妹には知らせない」
と弟は言いました。

8月に退院しましたが、183センチで75キロはあった体重が10キロ近く落ちてしまいました。
1ヶ月ごとの検診は、裁判を待つ被告人のような気持ちです。
陰性の結果が出るたびに大喜びをしていました。

 12月に皆で田舎に帰る事にしました。
母、妹夫婦、弟夫婦、私の夫、そして子どもたち。温泉の大部屋で雑魚寝し、鍋をつつきました。
弟は、前のようには、どんどん食べる事が出来ません。
口の中で少し食べ物を運んでは、30回以上かみました。
少しでも早く飲み込むと、のどに引っかかり、もどしてしまいます。
 盛り上がりの勢いで、弟ががんのことを話しました。
「でも、もう大丈夫だから」
弟も私も言いました。
母も妹も泣きました。
「家族だから、これからは何でも言ってね」
と母が言うと、弟は
「これからだけん、頑張ろう」
と。私たちはきずなを深めました。
 
 去年、桜を見て、私たちは何度、泣いたことでしょう。
 弟のがんが突然、脳に転移しました。会社で倒れたのが4月3日。
精密検査を受けた病院で
「どうやら転移の可能性が高い」
と言われた弟が、携帯でメールを送ってきました。
「桜がきれいだから、缶チューハイを買って知らない公園で飲んでる。お姉ちゃん、これが夢ならいいのになあ」
初めて本音で苦しさを伝えてくれました。

 再入院の説明の際です。
医師からは突然「余命1年」と突きつけられました。
あの時の弟の横顔。ピタッとメモを取るペンが止まった様子は一生忘れません。
 帰りの車の中、2人とも何も話しませんでした。
「大丈夫だよ」
それしか言えませんでした。
弟と別れ、車に乗った時、一人、大声で泣きました。
 何も罪を犯していない人間が死刑宣告されたような、世の理不尽さ。言いようのない怒り。希望を失った数日を経験しました。外を歩いていても、何を食べても、何も感じないのです。

 06年5月23日弟は36歳で亡くなりました。

再入院してからの1ヶ月の出来事はつらくてつらくてうまく書くことが出来ません。
「家族に手紙を書くんだ」
と、弟はベット脇に辞書と便箋を置き、仕事の書類も紙袋のそこが抜けそうなほど持ち込んでいました。
しかし、それらに触れることは一度もありませんでした。
脳への転移で言語障害が進み、不自由になった言葉で
「母さんに言わないで」
と言い続けました。

 亡くなる3日前に、母に言いました。病院の階段のおどり場で
「母さん、本当はよくないんだよ。しっかりしてね」
と言うと、
「真紀ちゃん。私は母親だけん、わかっちょったよ。あんたがどんどんやつれていくのを見て、わかっちょった」
 最期は、私がみとりました。苦しく息をしている弟に
「もう頑張った。家族のことは姉ちゃんに任せて。安心していいよ。いつか生まれ変わったら、またきょうだいだよ。お父ちゃんとお母ちゃんの子どもだよ」
と耳元で言いました。すると、うそのように、すーっと息をするのをやめ、医師も見守る中、ほんの数分で心臓が止まりました。
 今日がある━。
こんな当たり前のことが私たちにとっては、幸せです。
開いて置いてある窓辺の本が、そよ風でページがめくられるような何げない毎日。
幸せな事です。

 入院の前、弟夫婦と少しお酒を飲みました。弟は笑いながら
「お姉ちゃん、ぼくに何かあったら家族を頼むよ。家族はボクの分身だけん」
と言いました。
 父が、弟が、心の中にいます。
残された弟の家族は、
私の、
私たちの大切な家族です。
                                                                       江角 マキコ   

1 件のコメント:

takegi さんのコメント...

 この文章朝日新聞に載ったとき読んだよ。
 本当に色々苦労した人だよね。
 今テレビで料理を作りながら話をする番組に出ているけど、料理の手際のよさが良く判るよ。

 休みなしのダンさんの仕事、余り無理しないようにね。
          takegi