母方の祖母、キミコさんが、来月92歳になります。
最近、食が細くなり、体重が減ってきたと、母カズコさんから電話で知らせを受けました。
昔は、ケンタッキーフライトドチキンでもマックのハンバーガーでも孫や子供達と一緒になって食べたり、勧められればビールをコップに一杯、美味しそうに飲んでいたひとなので、だんだん食べられなくなってきた、ときいて、心配です。
あと20~30年は頑張って生きて!とカツを入れに、今月末、君子さんに会いに里帰りする予定です。
キミコさんは、最愛の夫、リョウさん(50代で病死)との間に子供を4人もうけ、その子らがそれぞれ2人ずつ子を産んだので8人の孫ができ、その孫らも子供を授かり、今ではキミコさんのひ孫が6人になりました。
『負けるが勝ち』を座右の銘としているような、柔和で穏やかなひとで、キミコさんが怒ったり、人と言い争ったりしているのを見たこはないな。
言いたい事をズバリと言えるのも「強さ」だけれど、逆に、言いたいことを言わずにじっと耐える「強さ」もある、と教えてくれる君子さん。私の母カズコさんが、その気質を受け継いでるな、きっと。
『負けるが勝ち』
「一時は相手に勝ちを譲り、強いて争わず、相手に勝ちを譲るのが結局は勝利となる」(広辞苑)
そんなキミコさんが生まれたのは大正5年、1916年。
そのころはどんなカンジだったのかな、と調べてみました。
歴史の教科書にでてくるような事件、出来事がズラリ。
キミコさんが生まれたころは、第一次世界大戦(1914-1918)の最中だったんだね。
結婚して家庭を持った頃は、太平洋戦争で、夫・子供と満州に渡って、ってハナシを聞いたことがある。
12月18日 東京駅が完成(1914年、大正3年)
1914年(大正3年)12月18日、ルネサンス式の赤煉瓦三階建ての東京駅が完成した。東洋一の規模であった。
12月09日 夏目漱石が死去 (1916年、大正5年)
8月3日 米騒動が全国へ波及 (1918年、大正7年)
第一次世界大戦中の1915年(大正4年)半ばからの好景気は、一部の「成金」を生み出したが、民衆は物価の急上昇によりかえって生活難に陥った。
しかし、寺内正毅内閣はインフレを抑えようとしないばかりか、地主を守るために外国米に高い輸入関税をかけ、さらに1918年(大正7年)のシベリア出兵の影響によって、米価が高騰した。
こうしたなか、1918年(大正7年)7月下旬富山県魚津町・滑川町などの猟師の妻などが大挙して役所へ押しかけたり、米屋に安売りを求めた。
8月3日には同じく富山県の西水橋町で米屋に安売りを脅迫する「女一揆」へと発展し、約1週間後には京都・大阪・名古屋などの大都市を始め全国へと拡大した。
米騒動の参加者は何百万人にも達した。運動は農村の小作争議や労働者の賃上げ争議とも結びつき、農民・婦人・部落解放運動・学生運動・普選運動・社会主義運動などにも刺激を与えた。政府は軍隊・警察によりこれを厳しく弾圧しようとしたため世論の支持を失った。その結果、同年9月寺内内閣は退陣した。
3月1日 三・一運動(1919年、大正8年)
朝鮮では日本の植民地となってからも国内外の独立運動グループが活動を展開していた。1919年(大正8年)3月1日、京城で、天道教・キリスト教・仏教団体の幹部など33人が署名した独立宣言が発表され、ちょうどその日高宗(元国王)の葬儀に集まっていた民衆がこれに呼応し、独立万歳をさけびながら行進した(万歳事件)。
この運動は、武断政治や土地調査事業などへの不満を背景にして、民族運動へと発展し、階層・宗教・思想を越えた民族自決と共和政を目指した。
日本は武力で鎮圧し、死者は7500人に及んだ。
5月4日 五・四運動(1919年、大正8年)
1919年(大正8年)の1月から開催されたパリ講和会議で、戦前にドイツがもっていた山東半島の権益返還の要求が無視されると、中国民衆の不満は日本と、日本の言いなりになっている北京政府の要人に向けられた。同年5月4日、北京の天安門広場に集まった北京大学など十余校の学生約3000人は「青島を奪回せよ」「売国奴を懲罰せよ」「日本は対華二十一ヵ条を取り消せ」などの要求を掲げてデモをおこなった。これを「五・四運動」と呼び、同年3月1日から植民地朝鮮で広がった「三・一運動」と並ぶアジアの民衆運動となった。運動は全国に広がり、日本からの輸入品の不買運動(日貨ボイコット)がおこなわれ、中国市場に依存していた日本の産業界は大きな打撃を受けた。運動はついに北京政府を屈服させ、親日要人の罷免とヴェルサイユ条約の調印拒否を決定させた。このころから、孫文の率いる革命派も、民衆に革命の基盤を置くことを重視し始め、同年10月に中華革命党を中国国民党に改組し、ソヴィエト・ロシアと提携を強めていった。
1月10日 国際連盟成立(1920年、大正9年)
1月17日 禁酒法施行される(1920年、大正9年)
アメリカにおける禁酒運動は、プロテスタントの考え方に基づいてつくられた宗教的色彩の強い禁酒運動団体の主導のもとに、19世紀から行われていた。20世紀に入ると禁酒運動の声が急速に高まり、半分ほどの州が禁酒となっていた中、連邦法としての禁酒法が1919年に成立し、1920年1月17日からアメリカ全土で実施されることになった。禁酒法制定の背景には、飲酒の健康的・社会的弊害を減らすことのほかに、工場における労働者の規律をただし、生産能率の向上をはかる意図も含まれていたといわれる。禁酒法は酒の製造・販売・運送を禁じたものであって飲酒そのものを禁じたわけではなかったが、法の目をかいくぐって密造、密売で大儲けするアル・カポネのような「ギャング」を太らせるなど、アメリカ社会にさまざまな悪影響を与えた。1930年代に入ると禁酒法反対運動が盛んになり、1933年、議会は禁酒法を廃止。「高貴な実験」と呼ばれた禁酒法は、酒を禁ずることの難しさを世界に知らしめるだけの結果に終わった。
5月2日 第1回メーデー 上野公園で(1920年、大正9年)
1920年(大正9年)5月2日、上野公園で15労働団体5000人の労働者が参加した第1回メーデー。
メーデーは1884年(明治17年)アメリカの労働団体が8時間労働を要求して毎年5月1日を期してゼネストを行なう決議をしたことにはじまる。2年後、アメリカでは最初のゼネストが行われ一部の労働者が目的を達した。これが第2インターナショナルで取り上げられ、1890年以来5月1日は国際的示威行動の日として広まった。日本では1905年、平民社による記念集会がもたれたが弾圧され、1920年、第1回のメーデーが行われた。15の労働団体を代表して大日本労働総同盟の鈴木文治が開会宣言。前年からこの年にかけて労働運動が活発化し、この年3月には株価大暴落で戦後恐慌に突入し、生活と失業の不安におびえる労働者の運動は急進化した。
「治安法撤廃」「最低賃金」「失業防止」などののぼりを掲げ、最後に「万国の労働者万歳」が三唱された。
メーデーは1936年(昭和11年)政府によって禁止されるまで通算16回を数えた。
10月1日 第1回国勢調査(1920年、大正9年)
1871年(明治4年)、明治政府は「家」を単位にした国民管理のため戸籍法を定めた(戸籍制度は世界的にはアジアの数ヵ国だけにあった)。しかし、都市への人口移動が進む中で、「家」は生活実態とはかけ離れてゆき、政府は新たに「世帯」単位の一斉統計調査(国勢調査=census)を必要とした。
1920年(大正9年)10月1日に第1回国勢調査が行われるにあたり、1918年に国勢調査施行令が出され、近代史上最大の調査のための啓蒙運動が展開された。
調査項目は、氏名・世帯での地位・性別・出生年月日・配偶関係・職業および職業上の地位・出生地・国籍・族籍(士族・平民など、戦前期のみ)に及び、5年毎に簡易調査、10年毎に本調査が実施され、国民動員のための基礎資料を提供しつつ現在に至っている。社会学者の戸田貞三は第1回調査をもとに、7割強の世帯が単純な核家族であり、都市型の家族が多数をしめることを明らかにした。
第1回国勢調査の結果は、日本内地の人口が5596万3053人、植民地であった朝鮮・台湾など外地の人口が2102万5326人であった。
10月28日 ファシスタ党、ローマ進軍(1922年、大正11年)
第一次世界大戦後、経済状況が著しく悪化していたイタリアでは、社会党が第一党になったが指導力を発揮できず、各地で労働者や農民の争議が相次ぎ、革命前夜を思わせる緊迫した情勢となった。一方、ムッソリーニが1919年に結成したファシスタ党(ファシスタの語源は「束」「団結」という意味)は、社会主義革命の防止を訴え、革命を恐れる資本家、地主、軍部の支持を受けて急速に勢力を伸ばした。ファシスタ党は左翼政党や労働組合を暴力で襲撃し、その制服から「黒シャツ隊」として恐れられた。1922年10月、ムッソリーニは政権奪取のため首都ローマに向けて大規模な示威行為をおこなった。これを「ローマ進軍」という。このクーデターを政府は戒厳令で鎮圧しようとしたが、国王は強力な政府の出現を期待して鎮圧を拒否し、逆にムッソリーニに組閣を命じ、ムッソリーニ政権が成立した。史上初のファシズム政権の登場であった。ムッソリーニはファシスタ党の一党独裁体制を固め、1943年まで統領として政権を握った。
9月1日 関東大地震おこる(1923年9月1日、大正12年)
1923年(大正12年)9月1日昼、相模湾北西部を震源とする大地震が発生し、南関東・中部地方の一部に大被害(死者10万6千人、被災者総数340万人)をもたらした。東京・横浜では火災による被害が大きく、東京は44%の建物が焼失した。さらに、通信機能が破壊されたために社会的な混乱が起き、民衆は自警団を組織したが、騒乱を謀るなどのデマが流れ、約6千人の朝鮮人と300人の中国人労働者が虐殺された。これは当時高まっていた日本人の朝鮮や中国への差別的感情を反映した事件だった。しかし、政府当局は「朝鮮人の暴動・放火」という根拠のない噂を認めて、虐殺の事実を隠した。さらに、憲兵大尉甘粕正彦らによる大杉栄殺害事件など、社会主義者の虐殺も行われた。震災による大きな被害に対し、政府は震災手形割引損失補償令を出し、また日銀が特別融資を行うなどの対策をとった。だが、その処理は進まず、1927年(昭和2年)の金融恐慌につながった。また、震災後の都市計画は都市地主の反対によって縮小され、山手住宅地の無秩序な開発の原因となった。
11月08日 ヒトラー、ミュンヘン一揆起こす(1923年、大正12年)
第一次世界大戦後のドイツは、巨額の賠償支払いに苦しみ、1923年には支払いの滞りからフランス・ベルギー両国がルール地方を占領し、これに対抗したストライキによってインフレが進行した。事態への対応をめぐってワイマール政府は激しく動揺し、また左右の政治勢力の対立も頂点に達した。この機会をとらえて、1923年11月8日夜、オーストリア出身の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首のアドルフ・ヒトラーは、突撃隊(ナチスの直接行動隊)を率いてミュンヘン市中のビアホールに乗り込み、集会中のバイエルン州総督らを威嚇して、ベルリン進軍とヒトラー首班の右翼政府の樹立への協力を迫った。クーデーターは翌日には軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕、裁判で禁固刑に処せられた。ナチス党も一時解散状態となった。これをミュンヘン一揆という。ヒトラーは獄中で『わが闘争』(Mein Kampf)を口述したが、これが後のナチスの聖典となった。ヒトラーはこの事件を契機に、政権獲得のための大衆運動、議会を通しての「合法的」方針、最悪の場合でも軍を中立の立場におかせる必要性を学び、それが後のナチスによる政権獲得に反映された。
難しいことはわからないけど、第一次世界大戦、関東大震災から世界恐慌、世界中が太平洋戦争へと傾斜する殺伐とした動乱の時代を生きてきたんだな、くらいのことはわかるよ、この私でも。今度、会ったらゆっくり話をきかせてください、キミコさん。