2009年9月17日木曜日

秋田内陸縦貫鉄道

7月に秋田に旅行したとき、JR角館駅の隣に小さな“秋田内陸縦貫鉄道”の駅がありました。
1車両しかない電車が停車しててね。
ローカルの私鉄なんだろうな、1両だけなんて、利用客いるのかな、会社として成り立つのかな~?とか色々疑問だったのね。

で、インタ-ネットで調べてみました。

秋田内陸縦貫鉄道(内陸線)は、昭和初期に阿仁町の阿仁鉱山からの鉱石輸送を目的に計画されたのが始まり。
この阿仁鉱山は延慶2年(1,309年)阿仁金山として開発されて以来、次々と銅山が開発され享保元年(1,716年)佐竹藩の産銅は全国第一位を占め、阿仁銅山は藩内の主位で、日本三大銅山の一山として全国的に名が知られていた。
金、銅以外にも、銀・鉛・亜鉛などが産出された。

鉱山が最盛期の頃、満杯の乗客を乗せて、一日中北から南へ、南から北へ疾走していた。
人口の減少と車社会の到来で、乗客は減り続け、いまやその存続さえも危ぶまれる状態にまで経営が悪化。
しかし、地元の学校や老人などの移動には、依然として欠かせない交通手段であることにはかわりない。
この縦貫鉄道の車窓からの景色は、昔ながらの田園風景、一面のお花畑、透き通った渓流、春の新緑、秋の紅葉、ココロ癒される故郷の景色が楽しめる。』


たしかに景色がすばらしい。
こんな列車に乗ってのんびり旅したいな~


だね。乗車するのは二人、あとはみんな見送りかな。

夏。元気なひまわりと同じ色の列車。

少しずつ

紅葉のころ

雪化粧に覆われる山に赤い列車が映えるね~


ね?旅に出たくなるでしょ?

写真はこちら(↓)のウェブサイトから拝借しました。

秋田内陸縦貫鉄道
http://www.akita-nairiku.com/


これは、縦貫鉄道とは関係ないんだけど、秋田藩(または久保田藩)当主の佐竹のお殿様は、もともと常陸(今の茨城)にいたらしいけど、関が原の合戦で、西軍にも肩入れしていたところがあり、東軍の徳川勢に積極的にに味方しなかったため、処分として秋田に転封(てんぽう=国替、領地がえ)されたんだって。

名門上杉家が陸奥会津120万石から75パーセント減の出羽米沢30万石へ減転封されたように、佐竹家も転封だけでなく常陸一国56万石は没収され出羽久保田に20万石での減封。

転封の際、美人ばかりを茨城から秋田に連れていってしまったので、秋田は美人がそろい、茨城には美人でもない人が残った、といわれ
「秋田の美人、水戸の不美人」 なんて言われるらしい。
これ、茨城のひと怒るよね?!


2 件のコメント:

takegi さんのコメント...

歴史のこと色々調べたんだね。
写真見て秋田のほうへも行きたくなるね。
シルバーウィークは結局何処にも出掛けず、光会館に行ったり、見沼田んぼや秋ガ瀬公園などサイクリングしたりして健康的に過ごしたんだ。
百ちゃんたちは元気になったらしいけど、念のため、家に居たようだよ。
二人が来たときには自転車を組み立ててなかったけどドロップハンドル車と、もう一台MTBも組み立てて乗れるようにしたよ。おき場所に困ってる。

まりりん さんのコメント...

ね?秋田のほう、いきたくなるでしょ?秋田新幹線でビューっといけるから、本当に便利だね。紅葉の頃、和子さんとのんびり出かけてみてはどう?
モモちゃん達がきても、遊ぶものがいっぱいで、飽きさせないね。近くに学校もあるし、見沼の動物園もあるしね。あと10年もたたないうちに、学校や部活とかで子供達が忙しくなるからね、今、一緒に遊べるうちがいいね~